Gears-日本刀の種類と部位-

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刀剣の目利書とは

鎌倉時代初期あたり、後鳥羽上皇の時代には、刀剣の目利きが行われていたようです。武器であった日本刀が、美術品としてその価値が一部の階層の人々の間にもたれていたようです。その鑑賞に関する方法も、個人的な判断ではなく、しだいに流行や風潮といったような、社会的な鑑賞法として評価になっていあったのではないかと考えられているようです。現在にも、一般的な刀剣の鑑賞法や評価がありますが、ほぼ似たような視点から人々は刀剣に価値を抱いてもいたようです。刀剣に関する情報が世の中に広まる中で、様々な評価が生まれてきたようです。刀剣に関する一般的な指針を示したものを「刀剣目利書」と呼ぶそうですが、現存する最古のものは、1423年頃のものであるようです。このような目利書を追ってみますと、時代のはじめの頃は、刀剣に対する切れ味や強靭さなどの実用的な部分を主観とされていたようです。また、刀の縁起や所有者に関する吉凶などの良し悪しが重要視されてもいたようです。このような鑑定ポイントが、室町時代の後半になると刀剣の美術的価値を述べる観点が重要ともなってくるようです。

太刀と大太刀

日本刀には、様々な種類があります。歴史とともに、形やそのネーミングは変わってきました。特に長さなどは、その分類の特徴を捉えるのにわかりやすい要素であるのではないでしょうか。日本刀には主に「太刀」「大太刀」「打刀」「脇差」「短刀」「槍」「薙刀」などの6種類ほどの分類があるなどと考えられているようですが、細かなパーツの種別は、バリエーション豊富にその特徴の違いを捉えられているようです。平安時代の後期から少しずつ作られるようになった「太刀」は、おおよそ室町時代の初めの頃まで、世に現役の刀として流通していたようです。騎馬戦などで有利であるなどと言われていますが、形状の特徴としては刃を下にすることです。腰に吊るすようにして帯刀します。観賞用として、飾る際にも刃を下に向けることが特徴と言えるでしょう。「大太刀」は、太刀よりも長く大きなものを言います。戦いの中で使用されるだけではなく、神を祀る際も御神体などとしても存在しています。室町時代の後期には、武士たちのシンボルとして大太刀は、活躍したようです。

刀剣とショップ選び

刀剣をコレクションする際に、日本刀選びも重要ですが、水選びも大切な要素となってくるでしょう。刀剣は奥が深く専門的な知識が必要であると言われておりますので、何かしら不明瞭な点が出てきた際に、些細なことでも尋ねることができるようなショップとの関係性は必要ではないでしょうか。ネットオークションなどでの購入の場合は、クレームや苦情を行うだけでも受け付けることが無いなどといったようなケースもあるようです。また不良品などが発生した際の返品方法なども不明確なこともあるようですので、きちんとした所在のわかるお店での購入が何よりも重要です。刀剣を購入する際には、アフターフォローなどのサービスが充実しているお店が望ましいでしょう。刀剣のメンテナンスには専門的な道具や知識が必要となってきますので、あらゆるサポートを行えあらゆる、専門知識が備わったお店選びが必須であると言えるでしょう。また当券を購入する際に、作者や銘などは重要なポイントとなってきますが、無銘であっても出来の良い刀剣はありますが、有銘であっても出来の悪い刀剣もあるのです。何よりも素人を騙したり、お店側の利益になるような取引を押し付けてくるようなショップは控えるようにいたしましょう。刀剣の見極めも必要ですが、お店も重要な要素となります。

日本刀の変化

日本刀は、戦闘の形式の変化と共に、その形も変わってきました。日本人が使用していた最も古い刀剣は、縄文・弥生時代までさかのぼると言われています。この時代の遺跡から出土し、古墳時代に入ると大刀(横刀)が登場したそうです。平安時代に入ると、日本刀は直刀も反りをつけて湾曲した形態に変化していきます。鎬造という現在の形に近いものが確立されていくのです。鎌倉時代に入ってからは、戦乱の世が始まりました。組討ちや斬り合いなど、総合的な形の戦闘へと移行していきます。実際の戦闘で、太刀をふるう場面が多くなってきたのもこの頃からです。そして南北朝時代に入ると、三尺近くの大きさを持つ太刀が登場し、さらに三尺を超えるほどの大太刀が出現しました。また、実際には腰に差して使っていた腰刀が、太刀ほどの長さを持つ打刀に変わっていったと言われています。太刀は刃を下にした状態で佩くというスタイルでしたが、打刀は刃を上に向けて差すというスタイルです。打刀が使われるようになった頃には下級武士たちの指料として使われてきましたが、やがて上位の武士であっても、差添である打刀のみを身に付けるようになりました。打刀は鎬造で反りを持っており、打ち斬るという使い方に非常に適していました。戦国期には、槍や鉄砲を主戦力の武器として持っていき、そこに打刀を差添として持っていくことも多かったそうです。江戸期に移る頃に、打刀が日本刀の代表になりました。脇指との二本差しが定着して、常に持ち歩くようになったそうです。しかし戦乱の世は続き、日本刀が使われる機会は減っていきました。幕末の動乱期に再び使われましたが、明治維新からは実用的な物としての役割を終えていきました。

美濃伝

鎌倉時代中期以降、美濃地方に発生した名工や刀工集団による鍛法を美濃伝というそうです。美濃伝の歴史というのは、鎌倉時代中期、良質の焼刃土を求めて九州あら来住したと伝わっている元重に始まるそうです。南北朝時代の初期に大和国から多芸郡志津郷に来た志津三郎、南北朝中期に北陸から美濃に入った金重や為継などが続いたそうです。

また、優れた切れ味で鳴らした兼さだや関の孫六兼元といった名前に兼の字を冠する刀工を多数排出したそうです。美濃国というのは交通の要衝であったそうです。足利将軍家を支えた土岐氏の領国だったそうです。そのため刀剣に対する需要も多かったそうです。優れた刀工と流派が興ったと考えられているそうです。特色としては板目に杢・流れ柾を交えて練れた地鉄に、互の目に丁字・尖刃を交えた匂出来の刃文を特色とするそうです。

帽子は乱込んで丸く返って、地蔵尊を横から見たときの形に似て地蔵帽子と呼ばれるそうです。戦国時代には、毛利家の重臣桂氏が濃集兼長に刀を注文していたそうです。切れ味と操作せに優れていたそうです。そのため美濃刀は武将の間でよく知られてものだったそうです。

江戸時代になると、美濃鍛冶の中には美濃を離れて、京、大阪や加賀国金沢、越前国福井、尾張国名古屋などといった諸大名の城下町に移住する人たちが多かったそうです。彼らはそこで新境地を開いていったそうです。日本刀は時代や土地によって特色が出るということで、五箇伝を知るのは刀剣の鑑賞にはとても重要なものだそうです。大和伝の手掻派や當麻派などの門前や荘園内で発生した一派の隆盛というのは、大寺院とその在地領主の武士の動向が大いに関係しているそうです。

相州伝

相州伝というのは、鎌倉時代中期以降に、相模地方に発生した名工や刀工集団による鍛法だそうです。相模国鎌倉に源頼朝によって幕府が開かれたことで、鎌倉は武士の都になったそうです。京都から粟田口国綱、備前から福岡一文字派の助真、備前三郎国宗が鎌倉に移住したそうです。彼ら以前にも鎌倉に刀鍛冶がいた可能性はあるそうです。

本格的な鎌倉鍛冶の歴史は國綱、助真、國宗の鎌倉に来てからということがいえるそうです。この三人の後に「鎌倉住人」という銘した短刀がある新藤五国光という人がいるそうです。國光の門人には、行光、越中則重、郷義弘、五郎入道正宗がいるそうです。鎌倉時代の末期の正宗というのは相州伝の完成者といわれているそうです。後の相州伝の基本とされたそうです。姿は輪反りだそうです。

板目鍛えの地鉄に地景が目立って、沸が厚くついて冴え、刃文は湾れに互の目・丁字を交えて、刃縁に粒だった湾が厚く付いていて、金線・砂流しがかかっていて、破棄に満ちているのだそうです。相州伝の作風というのは、沸を強調しているのだそうです。これは同時代の他の国の刀工や後の時代の刀工にもとても影響を与えたそうです。

正宗の名声が高まってくると、その作風は全国に広まったそうです。弟子には美濃の志津三郎兼氏や筑前の左文字などがいるすです。また新刀期の井上真改、新々刀の大慶直胤、水心子正秀というひとたちも相州伝に範をとっているそうで、作刀に取り組んでいるそうです。日本刀のことをほとんど知らない人でも日本刀といえば正宗ということがあるかと思います。オモチャの刀にも名刀正宗などという銘が入っていたりしていたのを覚えています。誰でも知っている名前というのはすごいですね。